とにかく音楽漬けです
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ジャズの録音
ルディ・ヴァン・ゲルダーというのは、50〜60年代のモダン・ジャズの録音を盛んにおこなった人です。

油井氏は、その後、ある機会に、僕の部屋でレコードを聴かれて、こうもいわれました。

「いや、これはえらいことだぞ。

このレコードがこんなに素晴らしく聴けるっていうのは。

うーん。

考えちゃうなあ・・・」。

これまた、レコードとオーディオの固有現象の現われであり、その明確な証言でしょう。

レコードとは素晴しいものです。

しかし、それに疑いをもつならぽ聴くべきではない。

実演だけにすべきでしょう。

そして、レコードを聴くのなら、レコードの特質・・・その限界と可能性・・・を理解して聴くことが、より大きな楽しみにつながるでしょう。

くり返し入念に聴ける、保存という、音楽にとっては夢のような、機能ももっています。

資料としても価値があります。

居ながらにして、あらゆる人の演奏が聴ける・・・。

など、いい古されたレコードの効用については今更申すまでもありません。

一方、レコードのハードウェアは、他の項で述べているオーディオのハードウェアのもつ問題と共通しています。

何かがちがえぽ、必らず音のちがいとして現われるわけで、それは、録音制作のコンセプトによるちがいとともに、レコードの固有現象の要素となっているのです。

録音に使われる、ありとあらゆる機器、製造プロセスなど、ことこまかに書いたらきりがありません。

ADの場合は、その固有現象は、カートリッジやスピーカーのそれに匹敵するぐらいのウエイトをもっているし、CDの場合でも、たいして変りはありません。

かつて、ソノシートという、ペラペラのビニールにプレスするレコードで、その耐久性の実験をしたことがあります。

五種類の材質のちがうソノシートに被測定信号と音楽を録音し、100回、1000回、3000回・・・と演奏し、その都度、測定と聴感で変化を確認したのです。

その時に、材質のちがいによる音色のちがいの大きさには驚かされました。

だから、レコードと材質、厚さなどの最終段階に至るまで、音色的固有現象をもつものだと考えてよいでしょう。

勿論、カッティングのちがいという、大きな要素などについてはいうまでもないことです。

物理的条件のちがいがあれば、必らず異なった固有現象がつきまとうものなのです。

大木一雄 =音楽好き

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物理特性
物理特性にうつつをぬかし、見当違いの音の効果でさえも無闇に喜んでいるような一部のオーディオ・マニアやオーディオ技術者は批判されても然るべきではなかろうか。

目的をさておいて、その手段だけをもて遊んでいることは、どうやら否定出来ないからです。

しかし、なにもしないで、頭だけで批判している傍観者より、はるかに好ましい人々であるこは前にも書いた通りです。

昔、音楽評論家の野村光一氏と対談をした時「僕は、レコードは嫌いです。

特に、実演を聴くことのない人をレコードで先に聴くのは危険だと思います。

また、レコードでイージーに音楽を聴くと、自分の感受性が失われていくようで、好きになれないのです」といわれていたのを思い出す。

これは筋が通っています。

レコード嫌いの野村氏と、レコード制作やオーディオを専門とする僕とを対談させるという企画は当時としては変り種のものであった。

後日この対談を、野村氏が大変面白かったといわれていたと聞いたが、僕も大変面白かった。

レコードを聴かない音楽評論家として通っている野村氏だからこそいえることだし、その発言はレコードをよく理解した発言にも通じる。

レコード音楽とオーディオの固有現象をよく見抜いた卓見であると思うのです。

また、ジャズ評論家の油井正一氏との話しの中で、油井氏が「僕達、本場のジャズに接したことのない時代に聴いたアート・ブレイキーやマイルス・デイヴィス、ソニー・ロリンズなどの演奏は、ルディ・ヴァン・ゲルダーの感覚のふるいを通して聴いていたわけで、ありゃ、その後新宿厚生年金会館で聴いた音とはまるでちがうよ」といわれた事も想い出す。

大木一雄 =音楽好き
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レコードの音楽面
録音に無関心な、あるいは、無知な音楽ファンがよくレコードの音楽面だけしか問題にしないのも正しい認識とはいえない。

そういう人達は、録音制作という仕事が音楽的に重要な役割りとなって、良い意味でも悪い意味でも、レコードのもつ音楽性をつくり上げているという事実を認識していないかのように思えます。

優れた演奏があって、優れた製造技術があれぽ、即、優れたレコードが出来るということは、残念ながらあり得ないのです。

しかし、これは理屈っぽい認識の問題であって、要は、そのレコードに音楽的感興をおぼえるかどうかであって、レコードそのものを音楽作品として受け取れば不都合はない。

ただ、それを単純に、演奏会での印象と比較したり、即、演奏家の評価に結びつけるのは時として問題です。

録音制作の不備が演奏家の評価に関わるのは、いかにも、その演奏家に気の毒です。

録音というものは、往々にして悪い演奏をよくすることより、優れた演奏家の全てを引き出せないことのほうが多いからです。

録音機器の機能や効果によって、音楽を完成させる要

素の強い、一部のポピュラー・ミュージックにおいてはその限りではないが・・・。

そんなわけで、認識不足とはいえ、音楽ファンの単純さや素直さを批判するのは厳し過ぎるかもしれないし、余計なことを知らせないでくれといわれるかもしれません。

大木一雄 =音楽好き
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固有現象
製造プロセスにも、僕のいう固有現象の多くは存在するから、人の感性の入り込む余地も必要もあるし、制作のそれにも、機器の優れた物理特性や、その管理技術がなくてはなりません。

しかし、レコードの録音を正しく判断するには、この二つの面をバランスして認識する必要があります。

優れたレコードは、優れた演奏、優れた録音制作、そして優れた製造技術という三つの条件とバランスの上に成立っていなければならないと思うのです。

そして、とかく、世間では、これらの局面的見方が多く、全体のバランスが理解されていないような傾向があります。

優れた録音というと、オーディオ・ファンの多くは、すぐ物理特性に焦点を当てる。

だから、ハードウェアだけがクローズアップされるのでしょう。

因みに、今、話題のディジタル録音やCDは、マスター・レコーダー以後のことであって、全体の塔の条件の中での出来事に過ぎない。

ピアノ・ソロという、シンプルなるがゆえに難しい録音ともいえるものに例をとって、ごく大ざっぽに話しをしたが、録音には、まだまだ複雑な問題が山のようにある。

そして、トータルの面からみて、世の中のレコードは玉石混濡です。

内容の音楽が複雑なものだから、その録音コンセプトも複雑をきわめます。

音楽表現の意図に適した録音コンセプトは、決して一面的な主張や尺度で扱われてはなりません。

ただし、それだけ多くのコンセプトによる録音効果のちがいがあるために、内容と異質なコンセプトによる録音が危険なのです。

ましてや、複雑な手法や大がかりな機器のシステムで録音したものが優れた録音であると考えたり、物理特性だけを録音の優劣の尺度にするのは誤った認識といわざるを得ない。

大木一雄 =音楽好き
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記録作業
料理とちがって録音は、時間経過の記録作業であるから、一秒たりとも、そこから耳をそらすことは許されない。

しかし、録音にはリハーサルがあって、その段階でしっかり味見をし、整えられるというやりやすさがあります。

モニターにょる味見ならぬ音決めは、録音がスタートしたら手遅れであり、また、全面的に頼れるものでもない。

僕が以前、ニューヨークで録音した時などは、全く、耳馴染みのないモニター・スピーカーでやらなければならなかったので、モニター・スピーカーは時間経過のプロセスを監視する役目にしか使わなかった。

これで味見をして決めたら間違いを犯すと判断したからです。

少々不安ではあったが、経験上、こうなるはずだという判断で押し切ってしまいまいた。

まるで、シェフの城さんが、ひどい風邪をひいてしまったようなものです。

城さんといえぽ、我家のお粗末な台所で、火力も弱いガスレンジで、よく、あんなうまいものを作ると感心させられたものです。

料理の生命は火であるとも聞いています。

しかし、城さんは、ちゃんとそれを心得ていて、ほとんどの下ごしらえをしてきたわけです。

いうならぽ、ミキシング段階まではやってきたのです。

我家の貧弱な台所では、それがカセット・テープに収録されたようなものなのです。

しかし、録音もミキシング段階までが終れば、かりにそれをカセット・テープに録音したとしても、録音の善し悪しの基本的なことは判然とします。

ミキシングあるいはトラックダウン以後のプロセスは、いかに、その音を変形させたり、劣化させたりすることなく、最終商品にまで持ち込むかという技術的作業です。

したがって、ミキシングまでが制作、それ以後は製造という性格が強い。

録音のソフトウェアとハードウェアといってもよいかもしれません。

勿論、この二つの段階共に完全にソフトとハードという要素に分け切れるものではないが、かなり性格は異なる仕事です。

大木一雄 =音楽好き
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音の構図
ステレオ録音にあっては、両スピーカー間における音像と、音場の関係を、音の構図として考えなければなりません。

ピアノ・ソロでも例外ではないが、複数の楽器編成ともなると、かなり周到な構成が前もってなされていなければなりません。

ピアノ音像の大きさ、距離感、音色と帯域・バランスなどは音楽の内容により録音制作者が意図的に決定するものです。

これらの全てといってよい音の構成要素が、楽器の配置とマイクロフォン・セッティングにかかっています。

食べものでいえば、素材とその料理法の決定が、ほぼこの段階で決まります。

そして、あらゆる素材にとって、多くの料理のヴァリエイションがあるように、楽器配置とマイクロフォン・セッティングも、その音楽内容に即して、多くのコンセプトが存在するのです。

そして、ミキシングです。

そのアウトプット出力の録音機への収録です。

ミキシングは、その名の通り、複数の入力を混ぜ合わせたり、その過程で、必要とあれば効果を整えるものです。

ピアノ・ソロといえども、これをないがしろには出来ません。

せっかく用意した素材も、それに適した料理法も、生煮えや焦げつきは勿論、スパイスや塩加減で台無しにしてしまうこともあるのと同じです。

優れた料理人は、あまり、味見をしないといわれるが、全く味見なしというわけにもいきません。

僕が親しくしている銀座のフランス料理店"レカン"のシェフ、城さんが我家で料理してくれたことがあるが、たしかに素人のように頻繁に味見をしません。

けれど、要所要所ではやっています。

これがモニターです。

大木一雄 =音楽好き
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音響エネルギー
ピアノの音響エネルギーが存在する空間なら、どこへ置いてもマイクロフォンは音を捨います。

どこへ置くべきだという規則はない。

だが、ピアノを中心とした空間の無限といってよい置き場所の中から、特定のマイクロフォン・ポジションを決めなければなりません。

少しでも位置がちがえば、音は変ります。

どこへ置くという判断の基準は、センスと音響知識に裏づけられた経験によるもので、ここで、録音再生の固有現象の認識も重要な役割りを果す。

定石は一応あります。

基本はピアノの全帯域の音響エネルギーがもっともバランスよく放射されるゾーンであることはいうまでもありません。

しかし、定石通りの音が最上とは限りません。

帯域バランスを欠いても、近接した音が必要な時もあるでしょう。

その場合、バランスは複数のマイクロフォンでカバーする方法もあります。

しかし、その弊害も考慮しなければいけません。

えてして、多くのマイクロフォンを使うような場合、特定の目的だけに気をとられ、その弊害や総合的な音質の劣化を招きがちです。

楽器とマイクロフォンとの距離は音色と音楽の性格に多大な影響をもたらします。

残響や反射音の少ないデッドな空間においても影響は大きい。

まして、ライヴな空間では、直接音と間接音とのバランスを明確な意図をもって決めなければなりません。

大木一雄 =音楽好き
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演奏者との協議
楽器の選択は、演奏者との協議で決める。

優秀なチューナーも必要です。

僕は、長年コンビを組んでいた名調律師、杵渕直知氏が亡くなってから、以後、満足のいくピアノ録音がとれなくなってしまいまいた。

ピアニストにとってもそうだが、我々、録音制作者にとっても、優れた感覚と技価をもつチューナーの存在が大切です。

勿論、肝心のピアニストとの相互理解と信頼が最大のものであることはいうまでもありません。

最低限、録音制作者が、その演奏に愛と尊敬とをもっていなければ、優れたレコードは作れないものです。

録音というものは、録音をとる人間の頭と心に響く音以上にはなり得ないからです。

また、演奏者は、録音制作者への信頼がなければ、自己の能力を全て発揮することは困難です。

音楽行為というものが、いかに微妙な心理性をもつものかを理解すれぽ、それは当然のことといえるでしょう。

楽器も録音場所も決まったら、今度は、どこへ楽器を配置するかです。

ピアノの場合は、床の影響を直接受けます。

良い録音にするためには、まず、良い音を用意しなければなりません。

次にマイクロフォンの選択とそのセッティングです。

大木一雄 =音楽好き
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優秀録音
たとえピアノの独奏の録音といえども、ことはそう単純ではありません。

制作者として考え、おこなうべきことは山ほどあります。

まず、どういう音響空間を用意するかということです。

録音しようとしている音楽内容にとって、いかなる音響空間が最適かという問題は、制作者のセンスと能力にかかっています。

彼がピアノという楽器をどう理解しているか、そしてどんな美しさに魅力を感じているか、さらに、その美しさは、どのような響きの空間で生かすことが出来るかという、制作者の資質と知識と体験の総合で決定されるものです。

勿論、現実に許される条件の中での事であって、建物までそのために作るわけにはいかない。

地理的に経済的に、その他諸諸の現実性の中でのことだから、常に理想的というわけにいかないだろうが・・・。

デッドなスタジオがよい場合もあるだろうし、ライヴなホールがよい場合もあるでしょう。

ピアノのような大きな楽器では、そこにもっと複雑な問題が絡んでくるのが実状です。

楽器中心に選ぶ場合もあるし、空間を選んで、そこへ楽器を運ぶ場合もあります。

大木一雄 =音楽好き
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音楽録音の物理的条件
ある特定の装置で、Aというレコードのヴァイオリン・パートが滑らかに聴こえ、Bというレコードのそれが汚れて聴こえたとしても、装置を変えると、ABが逆転するという場合さえ起きるのです。

音楽録音の物理的条件は測定によって判定するのは不可能であるし、ほとんど無意味でもあるので、物理的条件とはいっても、聴感上のものであり、機材を通して聴く以外に方法はないわけだから、決して定量的な評価ではない。

そして、音楽である以上、作品の性格によって、いかにもワイド・レンジに聴こえるものや、ナロー・レンジに聴こえるものがあるのも、印象に大きな影響を与えます。

調性や楽器編成、作曲上、編曲上の音や楽器の使われ方、楽器の個性、奏法による個性などが、録音機材の特質と、その使われ方(技術的な意味における)、制作者のコンセプトとセンスに結びついて、千変万化の音を生むのがレコードというものです。

だから、作品として出来上がった一枚のレコードを分析的に聴いて、どの部分が物理的条件に起因するかというような問題を正確につきとめるのは至難の業でしょう。

音楽、演奏、録音、再生というプロセスの中での、多くの固有現象の複雑な絡み合いの結果が、スピーカーから再生されるのです。

録音の固有現象については、ここに、その全てについて述べる余裕はないが、小は機器の個性や機能から、大は録音コンセプトに至るまであって複雑きわまりない。

中でも、録音制作者にょるコンセプトというものが、レコード音楽の固有現象としては音楽的に最も重要な要素であるといえる。

大木一雄 =音楽好き
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録音評の難かしさ
レコードの録音の優劣という問題は複雑です。

録音評というものがあって、優良可で評価したり、点数をつけたりしているが・・・実は僕もさせられているのだが・・・、そんな大ざっぱなことでは済まない意味が裏に潜んでいます。

録音評をしている人の全てが悩やんでいる問題でしょう。

同じ90点でも、あるいは可でも、ありとあらゆる内容のちがいがあるといってよいでしょう。

録音の物理的条件、つまり、周波数帯域、ダイナミック・レンジとSN比、歪の三大条件は、中でも比較的単純にいく。

しかし、それでさえ、試聴するシステムによって評価が異なる性格をもっています。

特に歪に属する類いのものは、それが大きい。

ある種の歪、例えぽ、ヴァイオリン群のようなオーケストラの中の高域楽器の音などは、装置によって同じレコードとは思えないほど、刺激的に鳴ったり滑らかに鳴るものです。

また、同じ装置でも調整によって異なるし、一部のコンポーネントの変更(例えぽ、カートリッジやトーンアーム)によっても変る。

大木一雄 =音楽好き
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ADプレーヤー
ADプレーヤーの場合は、値段によっては素材のグレイドは勿論、この品数にまで大差がついてしまうのです。

その代り、代償次第で、きめられた品数以上の特別料理が出てくる可能性もあります。

反面、俗にいう下手物が出てくる危険性もなくはない。

CDプレーヤーではこんなことはなく、安くても高くても、品数は同じようなものです。

内容が違うのだ。

そして、店によるメニューのセソス、味の個性ということでは、CDプレーヤーもメーカーや機種によって違いがあります。

ADプレーヤーほどではないにしても、個々の音は情趣が異なるのです。

量だけで見るから、CDプレーヤーはどれもこれも同じだというような誤った見方になるのです。

さらに、レストラソや料亭のサービスの違いにあたるのが、CDプレーヤーの…機能やアクセスでしょう。

これは大いに違いがあります。

ただ、現在のところ、まだ成長期にあるためか、価格の違いに必らずしも比例せず、メーカー間での格差が大きい。

動作の円滑さ、静粛さ、迅速性などが、マイコンのソフトウェア・コンセプトの差と共に、玉石混濡の現状です。

レストランや料亭での食事ではそのサービスの質とセソス、あるいは器などが味にも大いに影響するし満足感を左右するように、これも高級器にあっては、重要な問題でしょう。

残念ながら、現在のCDプレーヤーのデザイソや作りの質を含めたこの面での水準はいまだしの観が強い。

1985年のCDプレーヤーは、それで十分であろうという甘い考えが残っていて、まだまだ、CD自体の音を万全に両立してくれているとは思えません。

料理の品数は満たしていても、その素材の生かし方には研究や改良の余地が大いに残されているといいたいのです。

大木一雄 =音楽好き
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記録密度
オリジナルが優れたアナログ録音である場合であって、ディジタル・オリジナルのものは様子が違います。

ディジタル録音は、前にも書いたように、そのフォーマットによって記録密度が変る。

保証された記録密度以下でも以上でもないという明解さなのです。

いってみれば、ディジタルは平均して優等生的な生徒の多いクラスのようであり、アナログは、悪い子もいるが、飛び抜けて優秀な子もいるクラスのようなものです。

ディジタルは文部省指導型の平均的教育であり、アナログは、才能教育型のようでもあります。

だから、平均点ではCDが得するが、これでなければ、という魅力の点ではアナログが勝る場合があります。

ただし、現在のところ、本当に最高のCDソフトとCDプレーヤーが、どんなレベルまでいくものかは、発売されて三年足らずでは解らないというべきでしょう。

既に、ディジタル系とDAコソバーター以後のアナログ系をセパレートした高級モデルも二機種(六〇年五月現在)ぽかり発売された、マニア用の高級CDプレーヤーはこれから本格化する段階です。

ディジタル系で読みとった情報を、いかに音にかえるかというところには、アナログ機器同様の木目の細い技術セソスを必要とするようだ。
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ノイズの問題
同じマスターからのCDとADを比較してみていえることは、そのノイズの問題の他には、同程度の値段の機械なら、たしかにCDのほうに分があるという程度です。

この場合、ADプレーヤーにはイコライザー・アソプがないから、15万円のCDプレーヤーなら対抗するADプレーヤーは10万円程度と考えたらなおさらだ。

だから、当時、一番安いCDプレーヤーは約5万円だから、ADプレーヤーは2〜3万円でなければならず、とても勝負になりませんでした。

つまり、安いほうではCDプレーヤーが有利なのです。

CDプレーヤーは最低レベルは確かに水準が高いのです。

そうなると、CDソフトがADより安いか、少なくとも同じ価格ぐらいになってくれないとCDの真価が発揮されないことになる。

それどころか、ポピュラーや歌謡曲のシングル盤に相当するCDが今のところないのだから片手落ちです。

カラオケでは大分頑張っているようだが、あれはCDソフトが最適のメディアなのかもしれない…。

高級機器でのCDとADの比較は単純にはいかない。

ADプレーヤーの項で述べたように、AD再生は底知れぬところがあって、ディスクに入っている情報は大変多いので、カートリッジをはじめとして、プレーヤーの総合特性を上げていくほどに音がよくなっていくという魔性的なところがあります。

大木一雄 =音楽好き
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精度
アナログ・ディスクからすると、桁違いの精度だが、こんなに凄いものが、短期間に登場してしまった技術からしても、逆に現在のCDの主役たり続ける期間はそうは長くないことが想像されるのです。

現に、ポストCDたり得る可能性をもったものが、アイデアと実験段階なら、いくつも後にひかえています。

それはともかく、目的の音となると、そんな高精度の機械やオプトエレクトロニクス・テクノロジーなどに驚かされ、感心させられているわけにはいかない。

どんなものでも音が悪ければ、オーディオの世界では無意味です。

難しい理論や、気の遠くなるような数字をいくら並べたてられてもオーディオ愛好家には関係ありません。

結果の音が悪ければなんにもならないし、音の判断は全く別の問題です。

ここまで、CDの事を書いてきて、少々CDを持上げ過ぎているような気もするが、現状でのCDの音はそれ程革命的とまではいかない。

はっきりADよりいいと云える点は、ノイズ・レベルの低さだけだといってもよいでしょう。

大木一雄 =音楽好き
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完全な機械構造
CDを回転させるモーターは勿論、光レーザーでそのピットを追跡して読みとるピックアップ・アッセソブリーは、エレクトロニクスのサーボ機構でコントロールされているとはいえ、完全な機械構造です。

いわぽ超モダンなオプトエレクトロニクスと原始的なメカニズムとが同居しているようなものです。

そして、CD自体はフォト・プロセスで作られる原盤によって、ポリカーボネイト材に成型されたものです。

その上に光を反射させるべく銀鏡メッキ処理がされているのだが、この製造プロセスも、よくもまあ、あの微小なピットを正確に成型出来るものだと感心させられるのです。

当然、多少の成型不良も生れるし、再生においても、トレース不良による読み取りの誤りや、取りこぼしは生じるのです。

これが、そのままではお話しにならないのだが、そこが、01、01の組合せによるディジタル信号記録システムの凄いところで、補間や誤り訂正信号処理回路によって、短時間の欠落や誤りは、ちゃんと元通り出てくるという、頭の良さをもっているのです。

CDプレーヤーに実際に塔載されている高度な訂正信号処理LSIの中には、訂正もれの生じる確率が二十万年に一回という高性能なものもあります。

大木一雄 =音楽好き
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録音制作とソフト技術
録音制作というソフト技術から生れるCDは勿論のこと、CDプレーヤーも機種によって全部、音は違います。

つい、この前も、50機種以上の各社のCDプレーヤーをテストしたが、ADプレーヤーほどではないにしても、音は千差万別であった。

CDプレーヤーは多機能性、アクセスの速さや円滑さ、メカ・ノイズの静けさなどの操作性や操作感の違いは勿論のこと、それぞれ持味をもった音を出すオーディォ機器である点、他のアナログ系の機器と大差はないのです。

このことは、裏返せば、オーディオ機器として、専門メーカーにとって、まだ、いろいろ努力する余地もあるということになる。

ただ、フォーマットによる制約はいかんともなし難いので、やがて、スーパー・CDとでも呼ぶべきものも登場するかもしれません。

それが、CDの形をとるか、あるいは、もっと別の何らかの未来的なテクノロジーの産物として現われるか、いずれにしても、現在のCDが数十年という長い期間の主役の座を保っかどうかは甚だうたがわしいと思うのだ。

せいぜい長くて今世紀一杯、つまり、あと15年ぐらいの命だろう・・・。

CDに記録されているディジタル信号は、ピットと呼ばれる、極く小さな凸起の集合で、これを精密なレーザー光が読み取る仕組みであるが、その凸起の大きさは小さいものは0・5ミクロンの短径、0・9ミクロンの長径の楕円形、大きいものでも長径はわずか3・2ミクロンほどで、厚さは0・1ミクロンしかない。

これが、いかに小さいかは、人間の髪の毛の直径が約10ミクロン、毛細血管で5ミクロン径、血液中の赤血球が8ミクロン径の円形で厚さが2ミクロンある・・・という数字と比較してみれば理解していただけるであろう、この小さなピット群が、その数は、一枚のCDに18億から20億以上も成型されています。

そして、一秒間に、このピットを50万個も光レーザーは読み取っているのです。

大木一雄 =音楽好き
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アンプの世界
アンプの世界は電気の世界だから、機械的な強度や振動とは無関係に思う人が多いにちがいありません。

ところが、どうしてどうして、これが、音へ重大な影響を与えるものであることは今や、オーディオの世界の常識です。

小さな部品が電気や磁気のエネルギー、あるいは、機械的エネルギーで微妙に振動して音を濁してしまうのです。

また同じ規格とはいえ、部品の材質構造のちがいも、音のちがいとして現われることはよく知られています。

しかも、電気特性としてより優れているパーツが音は悪いということがあったりするのです。

もっとも、この場合は、測定の目にかからない要素で、特性的に悪いところがあるはずだと思うのですが・・・。

つまり、パーツの性能一つでさえ、まだ未知の要素があったりするわけです。

勿論、アンプのシャーシなどの材質、構造、剛性などは大きく音に影響することはいうまでもありません。

しかし、これらの音のちがいは、今のところ、測定値のちがいとしては現われない。

ただ、スピーカーとちがって信号の伝送系であって、直接、空間とは結びつかないので、我々の観念と結びつくところは少ない。

つまり、よりハードであって、ソフトウェア的なコンセプトの介在する複雑さは少ないのです。

しかし、別な見方、考え方をすると、そこに潜む要素は、よりデリケートであるだけに、求心的に追究し、感覚性のフィードバックにより完成させなけれぽならないともいえるでしょう。

しかし、ハードなテクノロジーの占める分野が大きいだけに、音質、音色の洗練という発想や仕事は、意識的に、あるいは無意識に避けられる傾向もあり、また、それでも、そこそこのアンプは出来上がるというのが実状のようです。

勿論、この事を十二分に認識して優れたアンプを作っているメーカーはちゃんと存在するのです。

大木一雄 =音楽好き
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クォリティ
アンプのクォリティや音の美しさは、当然、電気的な特性によって支配されます。

音の悪いアンプは、どこかに電気的な欠陥があるといってもよいでしょう。

ただ、現在のところ、この高度なエレクトロニクスのテクノロジーの時代とはいえ、その電気特性と音質との関連を100%数値で判断するまでには至っていないことも事実です。

スピーカ1のところでも同じようなことをいったが、アンプの場合はやや事情が異なります。

物理特性はスピーカーより二桁も三桁も優れているのがアンプです。

そして、スピーカーの特性が空気を介在させなければならないのと違って、アンプは直接特性を測定出来ます。

しかし、ありとあらゆるスピーカーが、つながれるアンプにおいて、あらゆるスピーカーの物理条件の下にどういう動作をするかを見極めるのは難しい。

また、刻々と変化する音楽信号を完全にシュミレイトできるような測定は不可能に近い。

アンプの測定法は最近大変な進歩を遂げてはいるが、最終的には耳で確める他に方法はないのです。

つまり、同じような測定値を示しても、音のちがうアンプがいくつも存在するというのが現実なのです。

耳では聴き分けられるはずはないと思われるほどの次元での測定が可能である一方において、測定には現われない音のちがいが耳で確認されるのです。

しかも、アンプより特性の劣るスピーカーを通して、音の違いが聴き分けられるのだから面白い。

この事は、最近話題の線材などによる音の違いも同じようなものです。

純度99・96%程度のTPCといわれる銅線と99.99%以上といわれるOFC、つまり無酸素銅線で音が違うことは多くの人によって確認されています。

数値だけを見ると、たった0.04%の違いです。

しかし、酸素の含有量にすると100.1ぐらいの違いだし、導電率では2%ぐらいの違いということだから純度のパーセンテイジだけの数値の比較とは大分感覚的にも違います。

そして、線材の違いは材質だけではなく構造、寸法なども極めて重要だから、もっと複雑な要素が絡んでくるわけで、単純に材質のちがいだけで表現出来るものではありません。

しかも、僕の実験では、特定の条件の下でないと、TPCよりLC-OFCの線材のほうが音がよいとは決められませんでした。

大木一雄 =音楽好き
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アンプの善し悪し
さて、パワーのことばかり話してきたが、アンプの善し悪しはパワーだけで決まるものではありません。

今さら、いうまでもないことだが、アンプの決め手も音質です。

ただし、音質の一つの条件としてパワーは基本的なものであるということです。

スピーカーの能率とアンプのパワーの関係は、車でいえば、エンジンの出力と、トータル・ウエイトの関係のようなものです。

また、エンジンだけに限っても、馬力さえあれば優れたエンジンとはいい切れません。

エンジンには最大出力の他にトルク・カーブというデータがあるように、アンプにもパワーとは必ずしも一致しないスピーカーのドライブ能力というちがいがあります。

そして、それが、減速比とそのメカニズムの組合せで、トータルの走る能力やフィーリングにちがいが出るわけです。

エンジンでさえ、フィーリングが重要なのだから、オーディオともなれぽフィーリングこそが生命だといってもよいでしょう。

そして、アンプは、つながれるスビーカーによって、そのフィーリングが変るのです。

つまり、ひっくり返せば、スピーカーはアンプにょって音が変るのです。

使うスピーカーに対して適正なパワーのアンプの中から、求める音のアンプをさがし出すのは困難だが、興味深い努力の道程です。

これが面倒くさい、金銭的に馬鹿らしい・・・といった気持が先立つ人は所詮、縁なき衆生といわざるを得ません。

中には、アンプに惚れ込んで、スピーカーのほうを取替えるという人もいます。

方法としてはヘテロドックスというべきだが、全面的に否定する理由はありません。

アンプの音というデリケートな領域で惚れる心情をもつ人ならば、多分、同質の、相性のよいスピーカーを見出すことが出来るでしょう。

大木一雄 =音楽好き

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決定要因
小型スピーカーは特に、その最大入力以上のパワーのアンプを組合せるべきです。

その逆に、大型スピーカーには高能率なものが多い。

95dBを超えるようなシステムも珍しくない。

一般に90dBを超えるスピーカーなら、家庭で聴く場合、100Wもあれば十分でしょう。

かなりの大音量派でも不足はない。

だから、もし96dBの能率ならば、25Wでよいということになります。

それほどの大音量を望まなければ10Wでも十分鳴る。

3dBアップは、パワーで倍だから、能率の数狙の差は注意を要する。

僕の部屋は約二十畳相当の広さだが、能率86狙のスピーカーで、100Wなら僕の要求する音量は満してくれます。

ただし、感覚的な音量というのはアベレイジなレベルであって、必らずしも瞬間的なピークと一致しません。

プログラム・ソースのダイナミック・レンジが拡大されると、ピーク・レベルが高くなるから、余裕を見ることが大切です。

その場合、倍のパワーでたった3dBしかカバー出来ないわけであるから、アンプのパワー・アップは、倍以上でなければ大した意味を持たないことになります。

プログラム・ソースのアベレイジとピーク・レベル差のちがいは、10dBぐらいはざらにあります。

よく100Wと130Wだから130Wのほうが強力だというような話しを耳にするが、大同小異です。

100Wアンプを持っていて、パワーの点でこれを買い替えたいということなら、次のアンプは最低200Wはなければ無意味に近いということです。

大木一雄 =音楽好き
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普及型、高級型
CDプレーヤーの普及型、高級型の差は情報量にはそれほど大きな差がないはずです。

理論的には全くないはずです。

これがCDプレーヤーの大きな特徴だから、低価格のCDプレーヤーに陽が当り勝ちです。

ではCDプレーヤーの価格差は一体何なのか?音の差はないか?という疑問が当然生れてくるでしょう。

現実に音の差は大いに認められる。

言葉で正確に表現するのは難しいが、その差は情報量の差もなくはないが、それより大きいのはグレイドの差(結果的には音のクォリティの差として現われる)とでもいうべきものです。

乱暴な例えで恐縮だが、料理の品数と味の関係のようなものです。

CDプレーヤーの場合、価格が違っても、出される料理の品数には大差はなく、その素材のグレイドや味に大きな違いが出る。


大木一雄 =音楽好き
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小音量
小音量で、レコード音楽として割切って楽しむという考え方ならば、大型スピーカーは必らずしも、いいことずくめではありません。

小型スピーカーならではのよさがあるし、小口径ウーファーの低音の魅力は、大型では得られない良さもあります。

また、コンデンサー・タイプなどの特殊なスピーカーにも、大パワーの再生ができるスピーカーにないよさをもったものがあります。

音の個性や、デリカシーを云々する前に、この音量問題が、スピーカー選びの第一の条件だと僕は考えています。

しかも、スピーカーには、それぞれ能率の差という条件があって、組合せを考える場合、ここをちゃんそおさえておかないと、アンプの選択の基準が定まらない。

アンプにも音の個性やスピーカーとの相性はあるが、まず、第一の条件は、求める音量を出すのに十分なパワーか否かということでしょう。

オーディオは音を出すことから始るのだから、鳴らなければ話しにならないのです。

このように、聴き手のレコード音楽に対する姿勢を決めた上で、スピーカーは選ばれるべきであり、アンプは、その上で検討されるべきものです。

小型精巧な箱庭のような音を再生するスピーカーも優れたスピーカーだし、圧倒的大音量で安定して鳴るスピーカーも優れたスピーカーだ。

しかし、この二つのスピーカーの奏でる音楽の世界は絶対に同じではない。

残念ながら、今、市場に多いのは、そのどちらでもない中途半端なスピーカーです。

種類はやたらに多いが、魅力的なものは少ない。

多くの人達に親しまれるオーディオとなった結果でしょう。

それはそれで結構だが、アベレイジを超、兄て光る魅力的な製品が少ないのが淋しい。

しかし、決してないわけではありません。

熱心なユーザーにさがしてもらうのをひっそりと待っています。

選んで買ったものは、その人を表わす。

そして、出した音は、その人のセンスの表われであると心得るべきです。

大木一雄 =音楽好き
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録音の時
録音の時というのは、細かい音やノイズを聴き逃さないために、やや音量は大きいのが常です。

そのままの音量でテープをプレイバックしたものだから、そのピアニストは、ノーマル・ボリュームにしてくれといった。

そこで音量を下げたのだが、まだ大き過ぎるという。

その音量は、彼が今まで弾きながら聴いていたはずの生の音量よりかなり低いはずのものであったが、それでも大き過ぎるという。

それでは、ご自分で適当に調節して下さい・・・といって音量コントロール・ツマミを彼に教えた。

彼が調節した音量は聴き耳を立てないと聴きもらすほどの小音量でした。

これには僕もびっくりして、聴き終ってから彼に聴いたのです。

「あれじゃ、あなたの弾いていたコソサート・グラソドどころか、チェソバロより小音量だが」と。

彼が答えていうには、家でレコードを聴く時は部屋ももっとせまいが、このぐらいの音量だから、そうしたのだというのです。

そこで、この部屋の中で理想的な音量はどのぐらいか調節してみてほしいということで、再び同じ曲をプレイパックしながらやってもらった、今度は、ほぼ、コソサート会場で聴くイメージと同じ感じの音量にまで上げたのです。

そして、あなたは自宅でどのぐらいの音量で聴くかと問われたのだが、ほぼこんなものだというと、しきりにうなづきながら、自分の家の装置では、こんなに上げると音が割れてしまう、この機械はさすがに素晴しい、帰ったら機械を買い変えようという話しになった。

それにしても録音の時の音量は、どこのレコード会社も大き過ぎます。

あれじゃ音楽が変ってしまう・・・と嘆いていました。

この逆の体験も度々した。

用意したモニター・システムではパワー不足なほど大音量再生を要求した音楽家もいるのです。

いずれにしても、再生音量は重要です。

だから、スピーカーから音楽的な実体験をしたいと願う僕なんかは、小音量のデリカシーとクリアネスから大音量時の安定した余裕までを欲張るわけです。

いきおい優れた大型スピーカーを必要とするわけです。

大木一雄 =音楽好き

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レコードというのは・・・
レコードというのは、大オーケストラから、ギターやチェンバロの独奏に至るまで、その最大音量(電気的なピーク)は、ほぼ同じに入っています。

だから、オーケストラをそれらしく大音量で再生し、その後に、ボリュームをそのままでギター・ソロのレコードをかけたら、オーケストラとギターとの相対関係は勿論目茶苦茶になると同時に、ギター独特の音楽的個性まで影響を受けることになります。

聴く部屋の大きさとの関連もあるが、演奏するレコードの音楽内容に適した音量に調節するというのは、レコード音楽愛好家の最低限のセンスでありマナーでもあります。

無論、適した音量というのは人によって、また部屋の容積などによってまちまちだ。

そしてレコード音楽は再生装置の能力の範囲で、いかような音量ででも演奏可能です。

生の演奏会ではそうはいきません。

だから、レコード音楽はこの点だけでも、特殊なのです。

ある人は実際以上の大音量でレコードを聴き、それを楽しみ、それに馴れ、それでなけれぽ音楽を聴いたような気がしなくなっています。

また、ある人は、小音量に馴れ親しみ、大立日量に耐えられなくなっています。

蚊の鳴くような小音量で聴くロックやジャズは別の音楽だし、大音量でガソガン鳴らすチェンバロ・ソロやバロック・アソサンブルも別ものです。

それらはもはや僕のイメージの中のバッハでもクープランでもヴィヴァルディでもありません。

ある時、外国のピアニストの録音をしていて、そのプレイバックを当人に聴かせました。

大木一雄 =音楽好き
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音楽表現
音量というのは、音楽表現のいろいろな要素の中で、大変基本的で、重要なものです。

誰もが、ごく無意識にレコードの音量を調節しているのが現実だが、これは、聴き手の音楽的センス、そして、再現される音楽表現にとっての重大事です。

音量には絶対的な基準音量と、相対的な可変立且里があるが、どちらも、音楽表現上の大切な要素であるわけで、音の意味や表現の基本的手段として重要視されるべきことです。

また、いうまでもなく楽器はそれぞれ固有の音量をもっていて、その音色と共に、それぞれの楽器の個性を形成しています。

音楽の表現の最も生命的な手法は弱音から強音をどう使いわけていくかにあります。

ピアニッシモからフォルテッシモ、あるいは、ピアニシッシモからフォルテシッシモという強弱の幅の豊かさが、音楽の生命であるといいかえてもよいでしょう。

これは物理的変化であると同時に感性と情緒の変化です。

有名なラヴェルの「ボレロ」から、この変化を無視してしまったらどうなるか。

ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」の冒頭のティンパニーをフォルテで叩いたらどうなるか。

同じベートーヴェンの「第五交響曲」の冒頭をピアノで奏したら、あるいは、シューベルトの「未完成」がフォルテで始まったらこんな例を上げていたらきりがない。

いつだったか、あるギタリストの演奏を聴いて驚いた。

初めから終りまで全てメゾ・フォルテで弾き通し、おまけに、テソポもイン・テンポの連続でした。

当然、なんの感動も得られないし、弾き手の頭を疑った。

そのうち、おかしくなってきて笑い出してしまった。

これらは相対的な音量変化の話しだが、再生装置の基準音量の決定がレコード音楽の場合、重要なのです。

大木一雄 =音楽好き
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鋭い指向性
鋭い指向性をもったスピーカーでモニターし、それを無指向性スピーカーで再生する、あるいは、その逆というのでは、録音時の意図の正確な再現という考え方からすれば、大きな矛盾であるといわざるを得ない。

しかし、先述の多くのコンセプトによるスピーカーが存在している以上、その矛盾をなくす事は不可能といってよい。

そして、そうしたスピーカーの多くのコンセプトの中で、どれがベストか、あるいは正しいかという判定は客観的に下し難いのが現実でもあります。

狭指向性、無指向性、球面波型、平面波型などは、それぞれに良さも悪さも同じようにもっていて、リスナーの好み、リスニング・ルームの条件、再生する音楽の性格などと結びついて特有の効果を発揮する。

きわめて複雑な問題なのです。

しかし、くり返していうが、我々、録音制作者にとっては、アウトプットの条件が定まらなければ、的確な録音コンセプトも定まらないわけで、これには、いつも大いに悩まされています。

現実は、球面波の定指向性型がモニター・スピーカーとして最も多いので、これで細かいコソトロールをおこない、あとは成行きにまかせているのです。

リスナーの使う様々なスピーカーが、思い通りの音を再生したり、思ってもみないような、ひどい音だったり、あるいは素晴しい効果が偶然得られたり・・・というのが実体です。

とにかく、スピーカーというのは、こんな調子で決して安易に考えるべきではないし、メーカーも、もっと明確なコンセプトに基いて作る必要もあるものです。

音量の話しから、とんだところへ発展してしまったが、この音量に関してはまだ大事な問題があります。

レコード音楽が、生の音楽に対して決定的にちがう性格として、僕は、再生装置の機能によって自由に音量がコントロールできるという問題を度々指摘してきた。

大木一雄 =音楽好き
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音像型と音場型
現在、スピーカーには、ごく大ざっぱに分けて、音像型と音場型と呼ばれる二つのタイプのものがあるが、これは厳密な意味では、再現される音の立体感のちがいからして、録音の在り方にまでさかのぼらなけれぽならない重要なことなのです。

音像型、音場型という呼び方は俗称であって、テクニカルに正確な呼称とはいいかねるが、一般的にはイメージ・アップしやすいので、一応、こう呼んでおくことにする。

音像型と呼ばれているものは、一定の指向性をもった、いわゆるビーム状の放射波をもったものが多く、リスニング・ポジションにおいて直接音主体のレセプショソとなるスピーカーを指しているようだ。

それに対して、音場型と一般に呼ばれているものは、無指向性に近く、部屋の中に積極的に反射音、間接音を多く生みだすものが多いようです。

その代表は、アメリカのポーズ・スピーカーで、MIT(マサチューセッツ工科大学)のボーズ博士の理論なのだが、その901シリーズのスピーカーは、正面に一個、後面に八個の小口径ユニットが配置されています。

つまり、リスナーに直接対面するスピーカーが一つであるのに対し、部屋の壁面に向けられたスピーカーが八つもあることになります。

また、日本ビクターが開発したGB11Hのように球型のシステムも四方八方に音を放射するわけで、音場型の典型といえるでしょう。

さらに、コンデンサー型や、俗に平面スピーカーと呼ばれるダイナミック型スピーカーのように、大きな平面振動板から平面波として放射されるスピーカーがあるが、これは、どちらにも属さない特殊なものです。

これらの平面波放射のスピーカーは、広い面積から音が出るため、ビーム状の球面波を放射するスピーカーのもつ音像の明確さに対して、音場的な印象を受けるが、平面波は、距離が離れても拡散する傾向がないので、指向性をもっています。

したがって、一概に音場型と呼ぶのは適当ではない。

こうした、スピーカー・システムによる再生音の効果の差は、当然、録音時のマイク・セッティソグやミキシソグ・コソトロールのコンセプトとの関連性が重要であり、本来は、録音時のモニター・スピーカーと再生時のそれとが、共通のコンセプトであるべきだ。

大木一雄 =音楽好き
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スピーカーをステージに見立てる
スピーカーをステージに見立てるというやり方と、スピーカーがどこにあるかわからないようにという二つの考え方は、実は、さかのぼって録音の考え方とも関連するものだと思っています。

つまり、このような考え方だと、当然、スピーカーに対して真面目に正面から対峙して座るわけで、二つのスピーカーは、あたかもステージのごときものだから、ステレオの音像定位や、空間の左右の拡がり、そして奥行の再現などは、さながら、絵画や写真の表現技術としての構図や遠近法のように重要なものとなってくる。

しかし、どこからともなく聴えてほしいということだと、それらの技法は全く意味をもたないから、むしろ、別の考え方で録音したほうが効果が上る。

やや専門的になるが、2チャソネルをステレオフォニックに位相処理するのではなく、むしろ、マルチ・トラック的に、各楽器を明瞭にとって、位相差や空間感は、スピーカーと部屋の再生にまかしてしまうというのも一法です。

あるいは、全てを中央に、やや位相差をもたせて定位させ、左右からは、たっぷり残響を響かせるという逆手も有効かもしれません。

例えていえぽ、映画のカメラ・ワークと、より小型な画面であるブラウソ管のTVのカメラ・ワークの違いのように、制作の考え方は、アウトプットが定まらなければ明確なコンセプトが生れないものなのです。

勿論、現在のレコードは、二つのスピーカーの正面に対峙して聴くという聴き方をアウトプットの在り方と定めて録音されているものがほとんどであるが、中には、そうではないものも混在しているようです。

大木一雄 =音楽好き
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スピーカーの音量を考える
組合せを考える時に、まず選び出すべきものはスピーカーです。

スピーカーこそは、音体験の少ない人の耳にもはっきりちがいがわかるものでしょう。

機種が異なれば同じメーカーのもの同志でも必らず音がちがうものです。

ましてや、メーカーが異なれぽもっとちがう。

サイズもいろいろある・デザイソもだ。

目下の自分が、スピーカーでどういう音楽の聴き方をするかを、自問自答してみることから始めてほしい。

まず音量だ。

大立且里で聴きたいし、聴ける条件もある・・・というのと、そうではないのとでは、選ぶべきスピーカーは変る。

部屋の中のレイアウトも考える必要があるでしょう。

せっかく大型スピーカーを買っても置くスペースがないのでは話しにならない。

僕なんかは、スピーカーを、ちょうど演奏会のステージのように錯覚して聴きたいほうだから、部屋の正面に、出来るだけ存在感のあるほうが好きです。

しかし、人によっては、どこにあるか解らないような、なるべく目立たない存在であってほしいと思うでしょう。

それも一つの見識というものです。

そんなことは枝葉末節と思われるかもしれないが、意外に重要な事柄だと思います。

大木一雄 =音楽好き
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